嫌な夏だな、と思った。


俺はもともと暑いのが好きではない。

しかしそれにしても、この夏はどうしたものか。

大抵良くないことは続くもので。

大赤字だし眼鏡は壊れるしカメラも壊れるし周りの奴らは熱いし。

とりあえず、この鬱陶しいうだるような暑さが早く過ぎ去ることを祈る毎日だ。







たまにはこんな物語


                by  KAKKI







最近は日本にも四季が戻ってきたらしく、「夏」がようやく「夏」らしくなり始めた。


そんな中、いつものメンバー――トウジにシンジに惣流、綾波、委員長、そして俺――で何処かに行くことになった時に、当然案として持ち上がった「海」という場所。
(ちなみに、俺たちは皆無事中学を卒業し、何故か先ほどのメンバー全員が同じ高校に通っている。)



この夏、海に行くだろうということ、もちろん、それは計算済みだった。

俺の周りには、惣流に綾波に委員長(これが意外と人気があったりする)と、これだけいい「被写体」が揃っているわけで、これを使って儲け…もとい、俺の撮影意欲も湧くってもんだ。

常々そう考えていた俺も、これでようやく報われるはずだった。



それぞれの予定から都合の良い日程を考え、場所、飯、酒(未成年は禁止など野暮なことは言わないでくれ)など全体のおおまかな計画を話し合う。

久々に楽しい旅行になりそうだった。



写真の売上げを予測、それを基に新しい機材を買って個人的にも準備万端の俺。

そんな俺を打ち崩したのは人間には所詮適わぬ相手であるお天気様。

俺たちの計画は、3日間降り続いた雨に流されてしまった。



それぞれが忙しい中、何とか都合を合わせて作った3日間。

一体誰が返してくれるっていうんだ。



お陰でこのままだとこっちは、この夏大赤字だ。










眼鏡が、壊れた。

いや、壊した、というべきか。



ある朝、少々寝坊したこと(トウジ、シンジと約束があった)に気づいて焦った俺は、机の上に置いておいた眼鏡を落とし、あろうことかそれを自分で踏んでしまったのだ。

しまった、と自覚した時にはもう既に手遅れで、今日は全体的にぼやけたシンジ、トウジと一日を過ごすことになるんだなと起きたばかりの覚醒しきれていない頭で考えていた。



まぁ俺は眼鏡にこだわりを持ってるわけでも、ましてコレクターでもないから、代わりなんて探せばいくらでも手に入る。

しかし、あの眼鏡をもう3年は使っていたのも事実で、全く愛着が無かったか、と聞かれれば間違いなく答えは「NO」である。

何となく、悲しいようなやるせないような、そんなやりきれない思いが俺の中を確かに渦巻いていた。











カメラが、壊れた。



風景写真を撮るために山に行った時のこと。

俺だって、いつもいつも儲けのことばかり考えているわけではないのだ。



この山に来ると、4年前、転校して来たばかりのシンジとたまたまこの山で会ったことを思い出す。

あの頃は、一人で戦争「ごっこ」をやっていたっけな。

今でも俺のミリタリー好きは変わらないが、戦争「ごっこ」をやることはなくなった。

俺が大人になったからとかそんなんじゃない。

ただ、本当の「戦争」をしてきたシンジや綾波、そして惣流を知っているから。

だから何となく、戦争「ごっこ」なんてもう止めよう、そう思ったんだ。




山の天気は変わりやすい。

それは経験上、分かっているつもりだった。

しかし、どうも俺は甘かったようで。

降水確率10%との予報に、雨具を持っていかなかった。



いい写真が撮れて気分が良かった。

吹き抜ける風が心地良かった。

いい具合に気持ち良さそうな木陰があった。

つまり、昼寝をした。



これが、いや、この日の俺の行動全てが間違いだったらしく。

不意に目覚めた時、その時にはもう手遅れだった。

少しずつ降り始めた雨はすぐに激しいものとなり、雨具を一切持って来ていなかった俺に襲い掛かる。

必死に走ったものの、その日に限って少し離れたテントの外に置いておいたバックは既に水浸し。

その中に入れていた愛用のカメラはもう使い物にならなくなっていた。

少し…というよりも大分古いタイプで、防水加工の全くしていないものだった。



小さい頃親父に買ってもらった最初の誕生日プレゼント。

それが、壊れてしまった。




やりきれない怒りにも似た悲しみ。

こればかりは、どうしようもなかった。











どうでもいいことだが…

いや、決してどうでもいいことではないな。



バカップル二組――トウジと委員長、シンジと綾波――はこの夏も熱くて、見ていて正直ムカついた。

俺――惣流のことも考えると俺「たち」になるか――に当てつけているとしか思えないような振舞い。

まぁあいつらがそんなことするワケはないから、勝手に俺がそう感じているだけなのだろうが。





* * *





高校に入って身長が伸び、体こそ大きくなったものの、大人になるということ、それが一体どんなことなのか俺にはまだ分からずにいる。



ただ、すぐそばにいるシンジや綾波、惣流を見ていると、やっぱり俺はまだまだガキなんだと思う。

シンジたちは、俺たちが一生かかっても経験できるか分からない程の苦しみや悲しみを乗り越えて来たわけで。

普段の生活からはなかなかうかがえないが、確かに彼らは俺たちと比べて何かが違うようだ。

それが何なのか言葉に表すことは難しいが。

「かっこいい」とでも言おうか。

顔とか性格とか、そんなものの話じゃない。(もちろん三人ともその点においても優れているわけではあるが)

彼らを纏う空気、彼らの持つ雰囲気。

そして、存在そのものが。

ごく普通の高校生である俺の目には、非常にかっこよく映るのだ。






高校に入ってから、両親の経営する店の手伝いを始めたのも、早くあいつらに追いつきたかったからだ。

特に強制されたわけでも何でもないが、変なバイトをやるよりはよっぽどタメになるだろう、と思って自ら両親に頼み込んだんだ。

いきなりそんなことを言い出した理由を聞いて少し笑みを浮かべた親父は、一言、「中途半端な気持ちじゃないんだな?」と俺に確認した後、快くそれを了承してくれた。



親父からもお袋からも、色々なことを教わった。

まず接客の仕方から始まって、レジの打ち方、うまいコーヒーの入れ方、軽い一品料理の作り方、そして何故かカクテルの作り方など。

正直言って思った程楽な仕事ではなかったが、それなりに楽しいものだった。



ランチや定食を作る両親を幾度となく手伝い、その手順もだいたい覚えてきた頃には、客が少ない夕方の店番を任されるぐらいになった。

まぁ、店番とは言っても、俺が任される時間帯というのはまずほとんど客は入って来ないし、来たとしてもコーヒーぐらいのもんだから軽いもんだ。






俺が店の手伝いをしていることを、うっかりトウジに教えてしまったのは、取り返しのつかない間違いだったわけで。

奴ら――バカップル二組と惣流――はほぼ毎日店に顔を出すようになった。

もっとも、それぞれが忙しいので、全員そろうことはあまりないが。



同年代の知り合いに、自分の働いているところを見られるのは恥ずかしいと言うか何と言うか、とにかく気分のいいもんじゃない。

たいてい、からかわれるに決まっているのだ。

全くどうしたもんか…










夏も終わりに近づいてきた。

まだまだ暑い日は続いているが、特に今の時間帯においては、幾分マシになってきたようだ。




いつものように店番を任された俺は、誰もいない店内を一度見渡し、意味もなくため息をついた。

すぐに洗い物を終えて、少し休憩でも取ろうと、久しぶりに自分のためにコーヒーを淹れ始める。



時刻は午後5時35分。

学校帰りの学生が溜まるには少々遅く、部活生が来るには少々早い。

夕飯には少々早く、忙しい仕事の合間の休息には少々遅い。

つまり、この時間帯に街から少し離れたこの店にわざわざ来るのは、相当な暇人だけってことだ。





何となく、淹れたてのコーヒーに牛乳を入れてみる。

俺は基本的にブラックで飲むのだが、まぁたまにはいいだろう。

牛乳を入れてカフェオレにしたことに、特に深い意味はなかった。

気まぐれ、とでも言おうか、何故かこうしてみたくなったのだ。






  カランカラン…



「いらっしゃいませ」

既に聞き飽きた客の入店を告げるかねの音に、俺は半ば反射的に反応する。


相当な暇人様の突然の登場に、俺のひと時の休憩は中断を余儀なくされた。

さて、グラスに水を入れてこないとな…





「相田〜、アンタさぼってんじゃないわよ。そんなんじゃ、お客が寄り付かなくなるわよ?
 ただでさえこんなにお客少ないのに…」




その声には聞き覚えがあった。

というよりも、毎日のように聞いているわけで、忘れようにも忘れられるわけがない。



「なんだ、惣流か」

「なんだとは何よ、なんだとは。
 せっかく、誰かのせいで客が寄り付かなくなった店に来てやってるのに」




急に店内が騒がしくなった。

と、同時に、少し明るくなった気がした。

太陽にかかっていた雲でも晴れたのだろう。



「お言葉ですがお客様。この時間帯はもともとお客様の少ない時間帯でありまして、 今ここにいらっしゃるのは、相当暇な方だけでしょう」

「…帰るわよ?」

「あ〜悪かった悪かった。
 ところで今日は一人か? 珍しいな」

「今日はたまたまバカップルが二組ともバカップルやってるのよ」

「ははっ、そうか。お互い独り身は辛いな」

そう言って苦笑した俺に、惣流は冷たかった。

「アンタなんかと一緒にしないでよ。
 私は好んで誰とも付き合ってないのよ」

「ははっ、そうか」

もう一度、さっきと同じ言葉、同じ苦笑を重ねる。



惣流がシンジに対して好意を抱いていたことを、俺は知っているからだ。

誰から聞いたわけでもないが、彼女のシンジに対する態度を見ていれば、それは一目瞭然だった。

シンジは奴のことだ、当然気づいてなどいなかっただろうし、多分綾波もそうだろう。

委員長の気持ちに長い間気づかなかったトウジがそんなことに気づいていたわけもない。

恐らく、それに気づいていたのは、俺と委員長だけ。

そして、あの委員長のことだから、自分から進んで相談なんかにのっていたのだろう。

あの頃の惣流が素直に認めるとも、まして自分から相談するとも思えないから。





「ほら、飲めよ。いつものカフェオレだ」

「あら、準備がいいわね」

「まぁな」



まるで初めからそうするつもりだったかのように。

俺は極自然に、その自分のために用意したはずのカフェオレを彼女の手元まで運んだ。



「でもちょっと早過ぎない?
 もしやアンタ、アタシのだからって手を抜いたわね!?」

「アホか。俺がそんなことする奴か?
 何となくお前が来そうな気がしたんだよ」

当然、嘘だ。

でなけりゃ、さっき惣流が来た時の俺のセリフは成り立たないだろう。

彼女は気づいていないようだったが。




「ふ〜ん、まぁいいわ。飲んであげる」

「そりゃどーも」

「あ、お金は払わないわよ?」

「そんなこと、お前が今さら言うことでもないだろ?」

ちなみにこいつは、今までにこの店に来て何も頼まなかったことは一度もないが、同時に、金というものを置いていったことも一度もない。

「それもそうね」

そう言って、少し可笑しそうに微笑んだ惣流に、不覚にも俺は少々見とれてしまったらしい。




いつからこいつは、こんな風に自然に笑えるようになったんだっけな。

そんなことを、ふと考えてみる。



出会った頃のこいつは、いつも無理をしているようだった。

笑顔を見せても、それはどこか「作られた」笑顔で。

カメラを通して人を見ていると、そうしたことがよく分かるようになる。



それが、いつの頃からか、こいつは自然な笑顔を浮かべるようになっていた。

同時に、彼女を二重、三重に取り巻いていたトゲは、少しずつ抜けていった。

きっとそれは、こいつにとって大きな成長だったのだろう。

恐らく、こいつは俺たちの中で一番大きく変わった。



必然的に、俺はこいつをカメラにおさめることが多くなる。

もちろん、売上げを考えてのことで、決して変な考えは持っていない。






「何か簡単なもんでも作るか?」

「う〜ん、遠慮しとくわ。
 夕飯も近いし、これ以上あんたが赤字になるのも可哀想だしね」

「分かってるなら金払えよ」

三度目の苦笑を俺は抑えきれない。

「デートの時に、女の子にお金を払わせるなんてダメな男のやることよ?」

「ずいぶん気のきいたデートだな、こりゃ」

「ふふっ、そうでしょ? 私のお気に入りの場所よ」

「ははっ、そうかい」



俺と惣流は、5年という歳月の中で、こんな風に自然に軽口を言い合える程度の仲にはなっていた。

もちろん、それ以上のことはない。








  カランカラン…



新たな客の訪れを告げる音。

今度は俺の知り合い、というわけではなかった。

「いらっしゃいませ。お好きな席の方にどうぞ。
 …と、悪いな、惣流。ゆっくりしていってくれ」

「言われなくてもね」

「それもそうだな」



彼女の手元のカップは、既に空になっていた。

まったく、俺が淹れたせっかくのカフェオレ、もうちょっと味わってほしいもんだ。



俺は接客のために、カウンターに座った彼女の前を離れる。

さて、グラスに氷と水を入れて、テーブルを拭いて、注文を聞いて。

…それと、カフェオレの準備だな。









「ありがとうございました」



コーヒーとフレンチトーストという、まるで朝食のようなメニューを注文したその客が店を出て行った時には、既に時刻は7時に近かった。

他の客がいる手前、惣流に大して気をかけていなかった俺は、ずいぶん久しぶりに彼女に話しかけるような気がした。

「惣流、まだ時間はいいのか?」

「………」

返事は、ない。

一瞬、機嫌を損ねたお姫様、という恐ろしい考えが俺の頭をよぎったが、いくら思い起こしても俺が何かした覚えはなかった。



「惣流?」

「………」

「お〜い」

「……スー…」

「………?」

「……スースー………」

「なんだ、こいつ寝てんのか?」

今日何度目か分からない苦笑。

どうもこいつといると、多くなってしまうらしい。



「お〜い、惣流」

もう少し寝かしといてやろうかとも思ったが、もう少しで俺の店番の時間も終わりだから、そろそろ家に帰らせた方がいいだろう。


「起きろ、惣流」

なかなか起きようとしない惣流に、俺はもう一つ苦笑をもらした。

まったく、そんなに疲れてるならこんなところに寄らないでさっさと帰って寝ろよ。





「…う……ん……」

「おっ、やっと起きたか…」

「…ん………え? アタシ寝てた?」

「ああ、ずいぶん気持ち良さそうに、ぐっすりな」

「そっか…え!? 今何時?」

「だいたい7時だな」

「えっ、嘘!? もうそんな時間?」

「ああ」

「アタシそろそろ帰るわ。今日はアタシが晩御飯作る当番だから」

彼女は、綾波と2人暮らしをしている。

とは言っても、すぐ隣の部屋にはシンジとその上司である葛城ミサトさんが住んでいて、実質4人暮らしのような状態らしい。

家事は基本的に分担や当番制にしているようで(1人何もしない人もいるらしいが、あえてコメントは控えておこう)、今日はたまたま惣流が夕飯の当番になっているらしい。




「そうか、気をつけてな」

「ん。ありがと」

「じゃあまたな」

「えぇ、また来るわ」

何気ない一言に、彼女の大きな変化を感じる。

少なくとも、昔はこんなことで素直に礼を言うような奴ではなかった。

こんなところで、彼女は確実に成長しているのだろう。

そう考えて、俺は少し不安を抱いた。

俺は一体どうなのか、と。

少しは成長しているのか、と。





  カランカラン…



俺は窓から見える外の景色をぼんやりと眺めながら、惣流が店から出て行く音を聞いていた。







もう少しで親父たちが来る。

7時から7時半までの間、この店は夜の準備に入る。

俺の店番は、準備のために店が一時的に閉まる7時までで、それから30分の間に夕飯を食うようにしている。

この店の本番は、間違いなく夜なのだ。






  ……ザー…ザー…



店の外から、どこか嫌な音が聞こえてきた。

今年の夏は雨にやられてばかりだったから、俺はその音に少々敏感になっていたらしい。




惣流がさっきまで座っていた場所には、ぽつんと一つだけ置かれたコーヒーカップ。

俺が淹れた二杯目のカフェオレは、まだ少し残ったままだった。




「まったく世話の焼ける奴だ…」



俺はカップの中のカフェオレを、少しためらった後一気に飲み干して。



そして、念のため持ってきておいた少し小さめの傘を手に、雨の中に飛び出した。








惣流の住むマンション――同時にシンジや綾波が住むマンションでもあるわけだが――には、店から歩いてだいたい30分はかかる。

その距離なら自転車でも使うのが普通だろう。

が、あいつは、よっぽどのことがない限り、歩いて店にやってくるのだ。

一度、そのことについて尋ねてみたことがあるが、「アタシは急ぎ過ぎないって決めたのよ」という、俺には全く意味の分からない答えしか返ってこなかった。




あいつも、この雨のことだから恐らく走ってはいるだろうが、このまま走れば道のりの半分も行く前には追いつくことができるだろう。

と、思っていたが、意外にもあいつの背中はすぐに見えてきた。

どうも走ってはいないようで、それどころか急ぐ気配さえ感じられなかった。

おいおい、飯の当番はどうなったんだ。





「アホかお前? 雨降ってんだから、もう少し急ごうとしろよ」

少し小さくも見える背中に追いついた俺は、惣流を雨から守るように、持ってきた傘を開く。

既に彼女はかなり濡れているようだった。



「アンタが早く追いつけるようにゆっくり行ってたのよ。
 …でもまさか、本当に来るなんて思いもしなかったわ」

「おいおい、かなり矛盾してるぞ」

「そうね。なぜかしら? 自分でもよく分からないわ」



本当に、全くワケが分からない。

もちろん、俺が追いつけるように、なんていうのは冗談だろう。

来るかどうかも分からない俺を待つなんて、聡明なあいつのすることじゃない。

しかし、なんだってこんな雨の中…




「とりあえず、ありがとね」

「ああ。でもな、惣流?」

まぁ、こいつにも何かしらの事情があったのだろうが、それは別に今俺が無理に聞く必要もない。

話したくなれば、今のこいつなら自分から話し出すだろう。

昔のこいつなら考えられないことだけど。


だから、俺が言うべきことは。


「『まさか本当に来るなんて思いもしなかった』って、それはないだろう。
 俺はそんなに冷たい奴か?」

こんな、軽い冗談。


「ふふっ、それもそうね。じゃあ訂正。
 『思った通り、アンタは来てくれた』 これでどう?」

そう言って、こいつは今まで俺が見た中でも恐らく最高級の笑顔を見せやがった。

ああ、こいつはこんなに可愛かったんだ。

不覚にも、そう思ってしまった。

いつも近くにいるから、それを意識するのは珍しいことだ。

純粋に、カメラにおさめたい、そう思った。

利益とかそんなの無しに。

ただ、純粋に。


「ああ、文句ねぇよ」

何となく、これ以上顔を見ていられなくなって、俺は顔を背けた。

「じゃあ、俺はこれで帰るな」

ふと、店を空けたことについて俺に説教をかます親父の顔が思い浮かんだ。

ああ、やっちまったな…







「は? 傘はどうするのよ?」

「どうするも何も、お前が差して行けばいいだろ?
 そのために俺はここまで来たんだから」

「アンタバカ? そんなことしたらアンタが濡れちゃうじゃない」

傘も差さずに雨の中を悠々歩くような奴には間違っても言われたくない。


「ああ、気にすんな。子供は風邪の子だ」

「それ多分字が違う」

「とにかく気にしなくていいから、早く帰って風呂にでも入れよ。お前もう大分濡れてるだろ?」

いくら夏とは言え、雨に打たれたまま長時間外にいるのは良くないだろう。

「アンタも一緒に家まで来ればいいじゃない?

 そしたら二人とも傘を差して行けるし、アンタもお風呂に入れるし一石二鳥よ」

多分俺のことを心配してくれているのだろう。

本当に、変わったな。




「あいにくこの傘は小さくてな、二人入るなんて無理だ。
 今の状況を見れば分かるだろう?」

俺はまだ惣流の頭上に傘をかざしたままだった。

もちろん、俺の体には遠慮なく雨の滴が当っては砕けている。

「もっと近寄れば大丈夫よ」

「いや、だからいいって」

「何? アンタこの美女とくっつきたくないって言うの?」

まだこいつにも昔の面影は残っているようで、そのころに植えつけられた俺の習性は、悲しいかな、拒否することを許してはくれない。

「分かりました。喜んで傘の中に入らせて頂きます」

「当たり前よ」

雨の中で、その顔はやたら満足気だった。








変なことになったもんだ。

今、俺の隣には惣流がいる。

しかもかなりの至近距離。

同じ傘の中。

いわゆる、相合傘ってやつだ。



こいつの家に着くまでという、極短い期間の。

時間制限付きの恋人のような。

そんな不思議な錯覚。

初めての感覚。





「アンタ、いつの間にか大きくなったわね」

こうしてすぐ近くで並んでみると、惣流は思ったよりも小さかった。

「ああ、高校に入ってから急激に身長伸びたからな。もう少しで180だ」

「もちろん体のこともだけど、何か大人になったって感じがするわ」

「そうか?」

「ええ」

こいつからこんなことを言われるなんて、思ってもみなかった。

俺から言わせれば、シンジや綾波、そしてこいつの方がよっぽど大人に見えるからだ。


「俺はお前の方が大人って気がするけどな」

「え?」

「お前やシンジ、綾波は、俺らなんかとは比べものにならない程のことを経験してきたわけだろ?
 やっぱり俺とは何か違うんだ。それにお前、自分がずいぶん変わったことに気づいてるか?」

「アタシが?」

「ああ。昔に比べて、笑顔が自然になった。それと、全体的に丸くなった。
 お前、昔は…もっとおっかなかったぞ?」

「……シンジにもヒカリにも言われたわ。
 アタシが恐かったかどうかは別として、確かに昔のアタシを思い浮かべてみると、ずいぶん変わった気はするわ。
 いつからこうなったのかは分からないけど」

「まぁそのお陰でお前の写真は更に売れ行きは上がって、俺としては感謝しているんだがな」

「そう思うなら今度何か奢りなさいよ」

「おいおい、お前忘れてないか? 俺はほとんど毎日奢ってやってるだろ?」

「あっ、そういえばそうね」

俺たちは少しの間笑い合った。





「でもね、相田?」

「あぁ?」

「アンタも、多分アンタが考えてるよりも大人になってるわよ」

「そうか?」

「アタシたちの中で一番変わったのはアンタだと思うわよ?
 昔はただのカメラオタクだったのに」

「その言葉にはちょっと引っかかるところがあるが、まぁいいだろう」

「少なくとも、アタシはそう思うわ。昔は全く冴えなかったけど、今は少しは冴えるようになってきたみたいだし」

「そうか。ありがとよ」

「どういたしまして」





どうして急にこんな会話をし始めたのか、全く分からない。

けれど、そんなことは最早どうでもよかった。

お互いの本音を言い合える関係が、嬉しかった。

自分が大人になったと言ってくれる惣流が、嬉しかった。







コンフォート17。

惣流の住むマンション。

それが、少しずつ見えてきた。



既に雨は上がってきている。

しかし、何となく傘を閉じることはしなかった。

彼女を送り届けるその時まで。




「本当にアンタ上がって行かなくていいの? そのままじゃ絶対風邪引くわよ?」

「だから言っただろ? 子供は風邪の子だって。
 それに多分、店にこわーいオジサンとオバサンを待たせてるからな」

「あ、そっか…ゴメン、悪いことしたわね…」

「なーに、お前の迷惑は何も今に始まったことじゃない」

「普通そんなこと言う?」

「…俺らが普通か?」

「そう言えばそうね」

クスッと。

可笑しさを堪えきれないように。

その微笑は、確かに今の彼女にとてもよく似合っていた。





「じゃあな。どうせ明日も来るんだろ?」

「多分ね」

「じゃあ、また明日な」

「ええ、また明日ね」



振り返って歩き始めた俺に、後ろから再び惣流の声がかかる。



「相田〜、アンタ今度からアタシのこと『アスカ』って呼びなさい? いい?」

「は? なんだいきなり」

「いいから。その代わり、アタシはアンタのことを『ケンスケ』って呼ぶから」

「いや、意味が分からない」

「とにかくアンタはアタシのことを『アスカ』って呼ぶ。いい?」

「いや、だから…」

「いいの? よくないの?」

「はぁ…分かったよ。じゃあまた明日な、『アスカ』」

「じゃあね、『ケンスケ』」







今度こそ、俺はあの店に向かって歩き出した。

さっきまで惣流、いやアスカと歩いていた道を逆に辿って。




きっと、店に着くなり親父にきつい説教を食らうことになるだろう。

少しの間だけとは言え、任された店番を放棄してしまったのだから。


しかし、俺の足取りは、決して重くはなかった。




ふと、惣流との会話を思い出す。



  「俺はお前の方が大人って気がするけどな」

  「アンタも、多分アンタが考えてるよりも大人になってるわよ」




他人が大人に見える間は、まだ大人になりきれていないのかもしれない。

そして、きっと、自分の成長が分かるようになること、それが大人になるために必要な条件なのだろう。


そう、思った。








雨は、既に止んでいた。





俺は、閉じていた傘を何となく開いて。

それを差して歩き始めた。





雨に濡れた体に、流れる風は少し冷たくて。

あの鬱陶しいうだるような暑さが少しだけ惜しく感じられた。



もう夏も終わる。









ああ、今年もいい夏だった。





     ―fin―


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